|
|
|
|
|
|
|
|
観音殿銀閣 |
 |
室町八代将軍足利義政が、祖父義満の北山第(金閣寺)にならって建立した山荘東山殿の跡。義政没後、遺言によって臨済宗相国寺派の寺院となり、義政の法名慈照院から慈照寺とした。
応仁の乱の最中にも関わらず、政治に背を向けて、茶・書などにふけった義政の東山文化は日本文化の礎ともなった。
銀閣・東求堂は国宝で世界遺産。 |
|
|
|
東求堂 |
 |
足利義政が文明18年(1486年)に建てた書院造の代表的建築です。義政の理想と美意識が強く反映されており、日本の住宅建築や文化に大きな影響を与えました。
同仁斎(どうじんさい)は、足利義政が東求堂内に設けた日本最古の現存書斎であり、東山文化の精神が凝縮された空間です。この部屋は、日本の茶室や書院建築の原点とも言われており、質素ながらも機能美に満ちた空間設計がなされています。 |
|
|
|
足利義政 |
 |
足利義政(あしかが よしまさ、1436年 – 1490年)は、室町幕府の第8代将軍(在職:1449年 – 1473年)であり、日本の中世史において非常に重要な人物です。義政の治世は、文化的には「東山文化」が花開いた時代である一方、政治的には深刻な混乱を招きました。
義政は若い頃から政治への関心が薄く、文化的教養に傾倒していました。将軍職を弟・義視(よしみ)に譲ろうとしましたが、その後に実子(義尚)が生まれたことで後継問題が発生。これが原因で応仁の乱(1467年〜1477年)が勃発し、全国的な戦乱の時代=戦国時代の幕開けとなりました。
銀閣寺(慈照寺)の造営を始めたことで知られています。これは質素・枯淡な美を重んじる「わび・さび」の文化の象徴です。
茶道・華道・能楽・水墨画など、日本文化の基礎となる芸術が発展しました。書院造や庭園文化(枯山水)もこの時代に成熟。
義政の優柔不断な政治と後継者問題により、守護大名同士の抗争が全国に波及。京都は荒廃し、幕府の権威は失墜。結果として、室町幕府の統治能力が著しく低下し、戦国時代の混乱へとつながります。
足利義政は、文化的には偉大な足跡を残した一方で、政治的にはその無策さが後世に大きな混乱を招いた人物といえるでしょう。 |
|
|
|
観光タクシーのお問合せは |
電話、メール、LINEでご遠慮なくお問合せ下さい |
|
|
|
|
|
メールアドレスをタップであなた様の
メールソフトが立ち上がります。 |
|
|
|
|
 |
 |
Line ID:motoyoshi.t |
|
|
|
|
|
|